公益財団法人ベネッセこども基金

コラム

「排除されている人はいないか」常に意識し、サポートする社会の仕組みとは?

子どもの安心・安全を守る活動



カナダは色々な国から来た移民たちによって構成されるモザイク国家。公用語の英語とフランス語以外にもさまざまな国の言葉が飛び交い、多様性が当たり前に受け入れられています。マセソン美季さんは、車いすユーザーとしてカナダに23年住み、子育てもしてきました。その中で、人々の人権意識やアクセシビリティ*の高さにも驚かされてきたというマセソンさん。今回は、貧困やマイノリティといった社会的に弱い立場におかれた人々への配慮と意識の高さや、寄付文化について振り返りながら、多様性を尊重できるようになる環境について考えます。

前編は コチラ


*「アクセシビリティ」とは...
障がいの有無に関わらず、幅広い年齢の人々が、社会的インフラ、施設、設備、製品、サービスにスムーズにアクセスし利用可能なこと。


マセソン美季さん

子どもが変われば、社会が変わると考え、スポーツの力を活用した教育プログラムを通し、インクルーシブな社会の構築を目指している。DEI(多様性, 公平性, 包摂性)コンサルタントとして、講演、セミナーの開催、研修プログラムの構築、経営戦略の設計などを行う。長野1998冬季パラリンピック金メダリスト(アイススレッジスピードレース)。国際パラリンピック委員会理事。カナダ在住。

支援情報へのアクセスのしやすさが、権利を守ることにつながる

カナダで生活していると、「排除されている人がどこかにいるかもしれない」と常に意識する、人々の姿勢を感じます。特にそれは教育現場で、強く意識されているように思います。

コロナ禍で一斉休校になったときには、ネット環境が整っていない家庭に学校や教育委員会から、すみやかにパソコンやWi-Fiルーターが貸し出されました。子どもの心や体の安全にも留意されていたのが印象的です。
特に配慮を感じたのは、家で虐待を受けている可能性のある子ども達への対応です。万が一、助けが必要な場合は、言葉で伝えなくても親指を隠して手を握って見せてくれれば、それが「助けて」のサインだよ、という情報が周知されました。当時は、心が疲弊している子ども達もたくさんいたので、ホットラインなどの、つながれる場所の情報提供もありました。教育現場がハブとなり、子ども達が助けを求められる体制が整えられていました。

また経済的に恵まれない家庭に対するサポート情報は、どのような家庭にも分け隔てなく入ってきます。 学校で配布されるサッカークラブのお知らせには、参加費の支払いが難しかったり、スポーツ用品が購入できなかったりする家庭のために、サポート団体の連絡先も書かれていました。ホッケーのお知らせには、障がいのある子ども達のための「パラ椅子ホッケー」の案内も書かれていて驚きました。

支援情報にアクセスしやすい社会では、疲弊しながらサバイブしたり、子どもをできるだけ標準的な基準に合わせるために苦労したりすることなく、必要な支援にたどり着くことができます。
支援を適切に受けられてこそ、子ども達の「学ぶ権利」や「スポーツをする権利」「遊ぶ権利」を担保することができると私は思うのです。

選択肢の豊富さ

カナダでは 、基本的に障がいがある子も自宅がある地域の学校に通うことができます。
そのために、例えば胃ろうの手伝いやカテーテル変換が必要であれば訪問看護師が学校に来てくれます。クラスで一斉に学ぶのが困難であればティーチングアシスタント をつける対応がされることがあります。親が付き添ったり、支援先を探したり頑張らなくても、子どもの「学ぶ権利」を担保する施策が整っているのです。

他にも、障がいがある子どもたちもスポーツ観戦が楽しめるように、会場では様々な工夫がなされています。例えば、フットボール観戦では、聴覚障がいを持つ方のために、字幕放送が出ることがあります。大きな音や明るすぎる環境が苦手な方が、静かな環境で観戦することができる"センサリールーム"を備えている野球場もあります。

球場のセンサリールーム。静かで明るすぎない部屋で鑑賞できる。



球場で、大きな音が苦手な人用のイヤーマフを借りられるところもある。

マイノリティという属性に関わらず、みんなと同じように、楽しみ、選ぶ権利がある。もしも、選択肢を持てない人がいれば、それは解決すべき課題だと捉えられる社会は、多くの人が生きやすいと感じるのではないでしょうか。

自分の行動で社会を変えられる、という意識

寄付ができることに感謝し、社会に貢献するのは当たり前と考える、「寄付文化」もあります。

スーパーマーケットには、レジのそばにフードバンク への寄付箱があり、そこに買ったものを入れていく人を多く見かけます。以前、スーパーに行った際、3つセットの割引商品があり、それを見た息子から「これを買って1つは家用に、残りの2つは寄付しよう」と提案されたことがありました。当時の私に、その発想はなく、ハッとしたことを覚えています。

遠征のための参加費を払えない家庭があり、旅費が足りなくなって、地域のスポーツチームのメンバー皆でスーパーの入り口に立ち、募金をお願いしたという話を聞いた事もあります。 費用を払えるか払えないかは、各家庭の責任というよりはチームの課題であり、子ども達が募金活動に参加することが、良い経験になると考える親も多いようです。

以前、子どもが通う高校で行われた寄付活動で、驚くような資金が集まったこともありました。子ども達の提案で、癌のリサーチのために寄付を募ることになり、1学年300人規模の学校の子ども達がウォーキングをしながら資金を集めました。興味を持ってもらえそうな企業にスポンサーのお願いに行ったり、メディアの助けも借りながらではありますが、最終的におよそ1000万円の寄付が集まったのには驚きました。

高校生が企画し、行動し、これだけの資金を集められたという経験は、きっと子どもたちの自信につながることでしょう。 寄付文化は、自分の行動で社会を変えられる、という実感を育んでくれるのではないでしょうか。

当たり前を疑うことで、変わっていく意識

振り返ると、この国で教育を受けた子ども達から、私自身が教えられたり、気づかされることが多くあったように思います。

子ども達が多様性を尊重できる大人に成長するには、成長の過程でどのような事が必要になるのでしょうか。
また、向き合う大人の姿勢にはどのようなことが必要でしょうか。

私のように海外で生活していなくても、自分に刷り込まれた固定観念を疑い、立ち止まって考えるクセを持っておくことが助けになるのではないかと感じます。

例えば日本の多くの学校で、姿勢よく椅子に座り授業を聞くことが良いことだという教育をされると思います。ここで、「姿勢よく座ることは本当に必要なのか?」と立ち止まって考えてみるのはどうでしょうか。
実際に、カナダの学校の先生たちは、おしゃべりをしたり他の子の邪魔をしなければ、子ども達がどんな格好で授業を聞いていても構わないと考えているようです。話をしっかりと聞き、頭を動かして考えてくれさえいれば、疲れてしまった子はソファーで休んだり、空きスペースで横になって授業に参加することもできます。
私も最初にその光景を見たときは驚きましたが、子ども達が学びを深めていけるのであれば、それは良いことだという考えに変りました。

逆に姿勢よく座っていたからといって、学習内容を正しく理解できるとは限りません。「姿勢よく座っていなければいけない...」という方向にばかり、子どもの意識が向いてしまうことで、かえって逆効果になる事もあり得ます。
環境によって難しい状況もあるかもしれませんが、可能な範囲で、これまで当たり前だと思っていたことを疑い手放していくことで、少し寛容な目で見られるようになることは他にもあるかもしれません。

「子どもは、こうあるべきだ」「この人はこういう属性だから、きっと、このように考えるだろう」という、決めつけや当たり前を手放すことで、子どもも大人も双方にラクになり、多様性をより受け入れやすくなることがあるかもしれません。

"多様な人と関わる機会を積極的に増やすこと"や、"正解は決して一つではなく、そもそも存在しない事もある"という考え方を共有することも大切だと考えます。
私たちが、少しずつ凝り固まった固定観念を手放していくことで、子ども達やマイノリティの立場にいる方々が生きやすい社会に向かっていけるのでは、と期待しています。



構成/柳澤聖子

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